『湯けむり』
5

 室伏良平は親から恵旅館を任されはしたものの客商売はあまり好きではなかった。あきと一緒になったのも半ば自分の嫌うところを穴埋めして十分な働きに惚れたからだといってもよかった。
 良平の目利き通り、おかみになってからのあきの働きにはめざましいものがあった。どぶろくづくりにとどまらない。裏の畑で野菜を作り、御殿場からの客には宿代がわりに米や野菜を持ってこさせ、あきはそれらの野菜で煮しめなどの手料理を作っては客に出して喜ばれた。旅館でありながら板前がいなかった。恵旅館にとってもあきの労だけで元手は要らず重宝したわけである。
 冬場になると客の着る物に困った。当時のこととて丹前などという気の利いた代物はどこの旅館にもなかった。衣類を商う店でさえ置いてなかった代物だ。どうしてもとなれば小田原へ出て行けば買えたが、それだけの金がなかった。そこで、あきは自分が嫁入りに持ってきた銘仙などの地味な柄のものをほどいては洗い張りをし丹前に仕立て直した。
 「あそこの家は丹前が出る」
 恵旅館に客が来るようになったのは、口伝えにそんな評判が立ってからのことである。手が足りなくなるとあきは亭主に死なれて実家に帰っていた姉の山口かねを連れてきた。
 良平にとってあきほど重宝な女房はなかった。商売の才覚を持った女を女房にするのも男の甲斐性のひとつと良平は自分で自分にうそぶいていたほどである。
 湯河原にまだ芸者などいない時分に、あきは上客が来ると三味線を自ら弾いてさのさや都々逸を歌い踊った。関鳥で女中をしている時代、宮小路の芸者に手ほどきを受けたものである。
 これは俺の出る幕ではないな。
 良平はそう判断して、専ら外回りに徹することにした。朝一番の電車に乗って北関東から新潟まで足をのばし観光関係の会社をまわって客寄せをはじめた。帰りは夜の十時、十一時である。こうしていれば、客が飲む大嫌いな酒の匂いを嗅がずにすむこともあったが、働き者の女房を持って髪結いの亭主のようになることを嫌ったのが最大の理由であった。
 夫婦でありながらほとんど顔を合わせることのない毎日が始まった。
 「なにもそんなにまでして出かけることないのにさあ」
 あきはそう説いたが、床の間の置物になりたくないという男の意地を通すところが良平の頑固といわれる頑固さのゆえんであった。
 夫婦の努力があいまって客が来るようになるとこんどは熱い湯が欲しくなった。ままね館の温泉井戸も出が悪くなっていた。
 「あんた、どうする? 温泉宿に温泉が来なくなっちまったらお手挙げだよ」
 「そうだな。考えていたってしょうがねえ。出るか出ないか、ともあれテルさんに掘ってもらうべえよ」
 テルさんというのは水道専門の工事屋である。温泉が出ても出なくても金を払うという約束で恵旅館の命運を賭けた井戸掘りが始まった。

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