『湯けむり』
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 《あらすじ》かつての湯河原は温泉町というよりも湯治場として静かに湯けむりを立てていた。戦後間もなくの頃までは湯河原駅からいきなり湯治場が見えたというほど間には何もない田舎町だった。あちこちに湯けむりが立ち、いまのような温泉町に発展したのは戦後もしばらくたってからのことである。
 恵ホテルの前身恵旅館も戦後に大きくなったそのうちの一軒だった。しかし、はじめは旅館といっても仕舞屋(しもたや)に二階を継ぎ足した粗末なつくり。しかも、銭湯の看板だけで旅館営業の許可はまだおりていないときだ。室伏あきが恵旅館へ来たのはその頃である。小田原の料理屋で女中をしていたあきは「臨時に」と頼まれてきて、そのまま旅館のおかみで居座ることになってしまった。亭主は仕事もやるかわり道楽も激しい。ほとんど家をあけたままで居たためしがない。あきはお産の産湯も自分で使えば、いかに女中を育てなじみ客をふやし旅館をにぎやかすかを女の細腕ひとつで奮闘してきた。自身もさのさや都々逸をこなす芸達者。女中から芸者から客までを巻き込んでの笑いと人情の人生譚をお届けする。

 戦後三年ほど経たお盆どきのことであった。小田原駅前の寿庵というそば屋に四人連れの客が入ってきた。
 「お盆に予約もなしに箱根来るバカがあるかい」
 「ここにいるじゃねえか」
 「バカヤロ。今夜どこに泊まるんだよ」
 「いまさらそんなこと言ったってしょうがねえじゃねえか。月日がさかのぼれるもんならちゃんと予約してきてやらあ」
 言葉つきからいって土地の者ではなかった。さりとて勤め人にも見えない。職人で、それも仕事師といった感じの風態にみてとれた。
 「オイ、そば屋さん」
 仲間から盛んに罵られてきた幹事役らしい男が呼びかけた。
 「ヘイ。なんでしょう」
 そば屋が問い返した。
 「どこでもいいんだけど、どっか温泉宿でひと晩ごやっかいになれるとこねえかい」
 「ありますとも」
 「オ、あるってよ」
 その男は仲間を振り返った。箱根へ行って旅館をさんざん当たってどこもかしこも満員と断わられてきただけに、空いている温泉宿があると聞いてほっとした気持ちと不思議さがごっちゃになったような顔で言った。
 「世間は広いようで狭いねえ。駄目だと思ってもやっぱり当たりはつけてみるもんだよ。ところでそば屋さん、いまじぶん行って泊まれるってえ宿屋はどこだい」
 「湯河原です」
 「オ。湯河原なら上等だ。なんて宿だい」
 「恵旅館て、ちょうどウチと知り合いなんですけどいいところですよ」
 「そうかい。じゃ、そこ行ってみよう」
 四人連れは小気味よくそばをすすると礼を言って出て行った。

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