『湯けむり』
10
二日ほどして顔中に青アザをこしらえた久子が恵旅館の玄関に立った。
「まあ」
あきは言葉もない。
「あたし韮山の家には絶対帰りません。よろしくおねがいします」
久子はぴょこんとおじぎをした。
その久子のあとを追うようにして父親がやって来た。
「どうなんだ。まだ考えは変わらねえだか?」
「変わりません」
久子はいっこく者の父親に向かってきっぱりと言い放った。
「そうか。じゃおまえはもう家へ帰っちゃいけねえよ。異動証明こっちへ送る手続きを取っただからな」
このうえないという仏頂面で父親はあきのほうに向き直った。
「じゃおたくにやりますからね。いいですね」
「いいですよ。どうぞもうお帰りください」
あきはゴーホームといわんばかりに玄関の外を指差した。玄関先で立ったままの応待である。ひどく礼を失したやり方だと思ったが、なまじ取りなして話がこんがらがってもいけない。久子にも父親にも悪い気がしたがあきはすげなく追い返すような態度を取り通した。案の定父親はかんかんに怒って帰って行った。
数日後、久子の異動証明が本当に送りつけられてきた。久子の運命は決まった。
チーちゃんこと久子は自分の意志で恵旅館へ来たが、ノンちゃん、ユキちゃん、サッちゃんといった女中っ子は、あきが学校へ頼み込んで連れてきた子どもたちである。いずれも親の意志で寄越されてきていた。
ある日のこと。あきが温泉場の道を歩いていると見かけない男が立ち話をしていた。
「どうだうまくいったか」
「いった」
短い会話だがあきにはピンときた。旅館にとんで帰るとノンちゃんがいない。あきはあとを追った。道々人に聞くと駅へ向かって歩くノンちゃんを見かけたという。駅員に聞くと「つい先程上りに乗った」と教えてくれた。
あきの予感は当たった。ノンちゃんは引き抜きに合ったのだ。立ち話をしていたのは働き者の女中っ子を引き抜きに来ていた男たちであった。
あきはノンちゃんの行き先をとりあえず小田原と踏んだ。小田原で列車を降りて駅前へ出てくるとノンちゃんが真新しい駒下駄を大事そうに抱えて立っていた。あとから来る引き抜きの男たちを待っていたらしい。
「ノンちゃん、こんなところで何やってんだい」
「アーおかみさん」
ノンちゃんは驚いて目を見張った
「こんな下駄ひとつでつられちゃ駄目だよ。ウチで辛抱すればもっといいもん買ってやれるだに」
ユキちゃんがいなくなったときは秦野の家まで探しに行った。女中が居つくようでなければ旅館ははやらない。あきは必死だった。
が、サッちゃんだけは進駐軍のオンリーのほうが金になると言って親が連れて行った。親の意志では引きとめられなかった。それがあきの大きな悔いになっている。
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