『湯けむり』
9
親の一存で進められた見合いと結婚それに続く離婚で久子は生活の根っこをなくして宙ぶらりんな気持ちになっていた。いままで順調に捗ってきた人生の歩みが突如中断したような虚無感が胸のうちにあった。
そんなときに松井の叔母からあきのたっての頼みを聞かされて久子は行ってみようという気になった。決めると久子はすぐにその足であきをたずねた。
恵旅館にはすでにノンちゃん、ユキちゃん、サッちゃんなどの学校出たての女中っこがいてあきの子どもの子守りをしていた。妹のいない久子にはそれがうれしかった。久子は恵旅館へ来てからは千恵という名を もらいチーちゃんと呼ばれるようになった。
数日後、久子の父親が現れた。
「ヨオ。ウチの久子いますか」
頑固で几帳面でお役人然とした紳士だった。それがのっけから切口上である。
「いません」
あきはソラをつかった。
「そんなことねえ。この間松井のところから来たはずだ」
「来てはいます。でも、いまはいません」
「どこ行った」
「さあ」
あきは部屋中を探したが久子の姿はなかった。探しまわるあきの袖を姉のかねが引いて言った。
「チーちゃんはいま洋服タンスの中にいるだからよ。オジンが行っちゃったら出すだからな。駄目だよ、いま言っちゃ」
久子は洋服タンスの中で息をひそめていた。そうしてるうちに何がなんでもここにいなければという気になってきた。必死に息を殺していると外から扉が開いた。
「行っちゃっただよ、チーちゃん」
久子はタンスから出るとその場にへたりこんで安堵の胸をなでおろした。
「オジンが迎えに来ちゃったけど、どうする?」
「どうするって……」
久子は返答に窮した。
「かたちだけでもいっぺん帰りなよ。松井さんの立場もあるだし」
あきに説得されて久子はいったん韮山の実家へ帰った。帰るなり久子は父親に向かって宣言した。
「あたし恵旅館で女中をやります」
父親のいいなりで嫁に行って失敗したからこんどは自分の意志でしっかり生きようと久子は心に決めていた。
久子の父親は烈火のごとく怒った。
「木内の家から旅館の女中なんぞ出せるか!」
「それはおとうさんの勝手です。あたしは行きます」
久子は頬にビンタが飛んだ。不思議なことにビンタを一発くったあとはもう何もこわくなくなった。かえって肚が座った。
「おまえは木内のツラ汚しだ。もしどうしてもというんなら異動証明持ってけ」
「はい」
ふたたび久子の頬にビンタが飛んだ。ぶたれているうちにビンタはゲンコツに変わった。
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