『湯けむり』
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結果の成否を考えればいまおのれがどうあるべきか、何をなすべきかは自からわかるというのが室伏良平の哲学だ。恵旅館が恵ホテルになり木造の建物の前後に鉄筋造りのホテルが二棟も建ったのには、良平の存在と働きが欠かせない。亭主だからといって決してあきの先には出ず良平は裏方に徹した。旅館の切り盛りはあきのほうが得手とみてあとに引っ込んだのである。が、自ら選んだ立場とはいえ気持ちとしては平静ではいられなかった。あきの働きに寄りかかっていたのでは対世間的に自分の立場というものが弱くなる。匂いを嗅ぐのも嫌だというほど酒が嫌いなこともあったが、良平が朝未明に家を出て帰りが十時、十一時になるまで旅行代理店まわりに精を出し始めたのはそのためだ。
ある日のこと、目時浅太郎が国内旅行社という代理店で伊勢参りの手配を頼んでいると小柄な男が振り分けにした荷を肩にかついで「湯河原の恵ホテルです」と言って入ってきた。見れば恵ホテルの半天を着ている。
アレレと思って浅太郎は良平を見た。
「番頭さん、しばらくだね」
「あいすみません、あちこちに足をのばしておりますんでつい間遠になりました。」
旅行者の社員とこんなあいさつを交わしている。
恵ホテルの番頭なら浅太郎もよく知っている。知ってはいるが良平ではない。
「アタシャ番頭なのでいますぐここで決断はしかねます。帰ったら主人によく相談してみます」
社員とやりとりしたあとぬけぬけとした顔で良平は言った。浅太郎はそのやりとりを見ていてさてはこれが評判のあきの亭主なのかと理解がいった。
こんなふうにして日本国中まわってやがんのか。芋虫みてえな格好して大したヤローだぜ。
舌を巻いて浅太郎はマジマジ良平の顔を見た。
良平がいう相談する主人とはあきのことである。自分の心の中であきを主人と呼ぶことで対抗心を燃やし、良平はともすると客寄せ行脚がおっくうになる気持ちを奮い立たせた。裏方に徹したからといってあきにシャッポを脱いだわけではない。
客が来てはじめてあきの働きが生きる。
その自負心がかえって良平に社長番頭の道を選ばせたのだともいえた。
朝、客が起きる前にホテルの玄関先を掃除するのも良平の日課だった。
「番頭、新聞持って来い」
「ヘイ」
たまたま早起きした客に用事を言いつけられても良平は決して「自分は社長でござい」というような顔はしなかった。
だれがみてもあきが表で良平が裏に見えた。表と裏がぴったり一致して世間とは表と裏は逆だが仲のよい夫婦に見えた。まわりの者もノミの夫婦とみていた。
が、このノミの夫婦は決してそんな生やさしいものではなかった。商売の世界では客の前で「ヘイヘイ」とへりくだっている良平も、一歩家庭の中へ足を踏み入れるとたちまちわからずやの一徹居士に変身した。
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