『湯けむり』
18

 久子の家の建前では目時浅太郎が鳶の仲間を大勢連れて来て木遣りをやった。
 何事かと近所の人が驚くような立派な建前になった。
 「辛抱は金、金、といいますけどね。三十五年……おかみさん、ここまでやってこられたのはみんなおかみさんのおかげです。感謝してます。三十五年といえば生まれた自分の家よかここのほうが長いんですものねえ」
 建前を終えて帰ると久子は涙をかくすようにして一気にまくしたてた。
 「三十五年ねえ」
 あきも感慨深げにつぶやいた。
 「猫なら化けて出るよ」
 そばから浅太郎が茶化した。浅太郎もすでに七十に手の届くところに来ている。そういう浅太郎の目も赤く充血していた。
 「三十五年だものね」
 ノンちゃんもユキちゃんもほっと吐息をついた。浅太郎が吠えた。
 「でも、みんないてよかったんだよな。俺たちだってあんな真似できないよ。地所買って家おっ建てて」
 「そうね。だから家も出来るしね。おかみさんに叱られながらでもなんでもね」
 「サッちゃんどうしてるかしら?」
 ふとノンちゃんがつぶやいた。
 サッちゃんというのは三人がまだ恵旅館に来たばかりの頃進駐軍のオンリーになるために親に連れ出された女中っこである。三人の今日があるだけにあきは胸がいたんだ。
 「あんときはあっちのほうがコレになるだったもの。ウチにいるよか」
 あきは言いわけともつかず指を丸めて言った。
 「俺は失敗しちゃったと思ってるよ。チーちゃんと一緒になってりゃ苦労しなかった」
 「そのかわりあたしが苦労しているわよ」
 浅太郎は月に二回三回と来ては三、四日泊まるようになっていた。恵ホテルの人間は浅太郎を見てだれも「いらっしゃい」とはいわない。「お帰りなさい」というのが浅太郎に対するあいさつになっていた。浅太郎一人でもよい顧客だったが、浅太郎の枝葉となってやってくる客がまた恵ホテルにとっては大きかった。
 あきは三十五年前の横っトビと小田原漁師の大立ちまわりを思い出した。広間で鳶と漁師が大喧嘩をしているとき、あきはままね館の脇で吹き出した温泉と湯けむりを見てピンコロとびはねていた。
 あの頃はみんなまだ盛んだった。
 湯が出たうれしさで鳶と漁師の喧嘩を警察沙汰にせず金も取らずにおさめて帰したが、あの日もし湯けむりが立たなかったらはたしてあんな絵に描いたような真似が出来たかどうか。目の前の浅太郎を見ていてあきは湯けむりが立つように目が曇るのを感じた。
 その後、数年ぶりで小田原の元漁師たちがやって来た。いまでは漁師をやめて板前や料理屋のオヤジになっている。
 「あのときのお客さん、ほら大喧嘩した……いまでもよく見えてますよ」
 「ほお、そうかね。来てるだかね」
 元漁師たちもなつかしそうに目を細めた。


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