『湯けむり』
8
木内久子があきにスカウトされたのはこの頃のことであった。鳶だテキ屋だと団体客がたてこんでくるとよく働く女中がなんとしても必要になってきた。
久子は毎日毎日狭霧の立つ千歳川で洗濯をしていた。このときまだ十九歳。嫁に行ったが逃げ戻って韮山の実家から縁戚にあたる松井という電気屋に預けられていたのである。洗濯の手を休めると過ぎ去った日のことが脳裡に浮かんでくるので久子は洗濯の手を休めず一心に洗い続けた。その働きぶりがあきの目にとまったのである。
久子の家は当時としては大百姓の部類に属した。父親は二十六のときから村会議員をやり村の政治にかかわってきた。そんな関係で一年三百六十五日久子の家には来客の絶えたためしがない。久子の母はその客をもてなすどぶろくつくりに追われていた。結婚式やら何やら近所で祝い事があると、久子の母は二十畳敷もある板の間の縁下からどぶろくを絞りあげては一升びんに詰め、十本、二十本と届けていた。幼い頃の久子は、いつもあかい色をした母の顔を不思議に思ってみつめたものである。
雨が降ると手の甲大の沢ガニが近くの川に流されて下ってきた。それを竹編みの大きなカゴに取ってきては甲らをあけ足を取ってカニ汁をつくるのが久子の腕自慢だった。大根、ニンジン、ゴボウなどと一緒に沢ガニを大きな鉄ナベで煮るのである。
「久子ちゃんの作るカニ汁は最高だ」
千歳川の流れを見ていると韮山の川が思い出された。思い出すまいと思ってもつい手の動きがのろくなって韮山のことを想い浮かべた。ハッとして気がつくと久子はまたせっせと洗濯物をもみはじめた。
その韮山から伊豆長岡へ久子が嫁に行ったのは十九のときである。いちばん上の姉はすでに大百姓の跡取り息子のところへ嫁ぎ、その下の姉も沼津の水産加工屋へ嫁に行っていた。順繰りで久子も見合いさせられた。ちょうどそのとき好きな恋人のいた久子は相手の顔も見なかった。
が、久子は父親にいやと言えなかった。頑固な父親に服従することに慣らされてしまっていたからである。
当時としては珍しいミシンやらたくさんの嫁入道具を馬力に積んで韮山から伊豆長岡へ久子は嫁入りして行った。その嫁入先から久子はわずか一カ月半で韮山に逃げ帰ってきてしまった。
おお嫌だ嫌だ。
久子は思わず洗濯物を千歳川の水でバシャバシャすすいだ。洗濯物にまで自分の忌わしい過去がしみついているかのように。
「あの娘(こ)洗濯ばっかしてるけどよお。弁慶縞の帯なんか締めてあんなところで洗濯してるような娘じゃないよお」
「親類から預かってるだもの仕方ねえよ」
「ウチへ少し寄越しなよ。悪いようにはしねえだからよ」
「親がいけねえっていうよ」
「親が来たら寄越しとくれよ。ウチで話をするだからよ」
あきは松井の奥さんを口説きはじめた。
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