【小説】湯けむり 小林伸男

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第四話

 室伏あきは明治四十三年小田原の在の寺町で生まれた。小さい頃から洋裁を習い、十五、六で女中奉公に出、恵旅館に来る前は関鳥という料理屋で女中をしていた。
 恵旅館に来たといってもはじめは臨時の女中だった。恵旅館の上にままね館という湯治客相手の銭湯があって、そこだけでは湯治客をさばききれなくなって始めたのが恵旅館である。ままね館は湯治客を収容しきれなくなるとあぶれた客を馬車に乗せて恵旅館へまわして寄越した。
 恵旅館という名は冠していても仕舞屋を改造しただけの建物である。湯もずっと上から引いてくるうちにぬるくなってしまっていた。しかも室伏良平のほか雇い人は臨時の女中で入ったあき一人。掃除、洗濯、めし炊き、料理、湯治客の世話と何がなんだかわからなくなってやっているうちに、いつしかあきは恵旅館のおかみになっていた。
 あきが旅館のおかみに居直って、まず手こずったのが良平の頑固な性格だった。恵旅館は旅館業の届けをしていないために酒が出せない。なぜ旅館業の届けを出さなかったのかというと良平が大の酒嫌いだからだった。旅館の名を冠しておりながら旅館業の届けを怠ったのは良平が酒を出したくなかったからである。しかし、酒なくしてなんの旅館かなである。あきは良平を説得した。が、頑として応じない。
 アーあ、えらい人と一緒になっちゃた。
 気づいたが後悔先に立たずであった。臨時の女中で入ってから良平と所帯を持つにいたるまで、忙しすぎてあれこれ考えている間がなかったのである。
 女中ならば自分が折れてそれですむ。が、おかみとなると将来のことを考えなければならない。良平がなんとしても説得に応じないとみてとると、あきは自分でどぶろくをつくりはじめた。違法だが背に腹はかえられなかった。
 あきのつくるどぶろくは、樽を温泉につけておくために早く発酵した。それを押入れの床をくりぬいて土の中に埋めておくのである。その上にふとんやら枕やら雑多に積みあげておく。枕の中には米が入っていた。
 税務署の役人が来てもわからない。
 「その戸開けてください」
 「ハイ、開けます」
 役人に言われてあきが襖をあけるとただの押入れにしか見えない。
 「ハイ、結構です」
 税務署はひとつきに一度しか来ない。一度来ると一カ月は安心していられた。
 あきが浅太郎たちに振る舞ったのは、こうしてつくったどぶろくである。狐の小便でも何でもない正真正銘のどぶろくだった。
 しかし、税務署はだませたが、亭主の良平は収まらなかった。
 「なんだ。また酒を出しやがったのか。いいかげんにしろ!」
 当時はまだ泊まり客が少なかった。大半が近在の客で、湯に入ったあとで飲み食いして帰るだけ。酒を出す利もさほど大きくなかったのである。怒鳴られはしたが、怒っても税務署に通報しないのはさすがに夫婦だとあきは思った。

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