【小説】湯けむり 小林伸男

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第七話

 茶碗ごとめしは飛んでくる膳はひっくり返るで刺身も煮しめも見分けがつかないほど踏んずけられて畳にこびりついてしまった。部屋の外に逃れひっくり返ってうんうん唸っているのもいれば着ているものにおかずとごはんをベットリつけて取っ組み合っているのもいた。みんな血だらけである。真っ蒼な顔でかけつけた番頭まで階段の下へ投げ落とされる仕末。打ちどころが悪かったのか番頭はのびて動かなくなってしまった。
 「オイ、番頭死んじまったんじゃねえか。動かねえぞ!」
 だれかが抑えたような声で叫んだ。その言葉が修羅場にいいようのない衝撃を与えた。エンストを起こした車のように罵声も品物の壊れる音もたちまちやんでしまった。
 「オイ!ほんとか!」
 敵味方も忘れて顔を見つめあった。もともと面白半分に始めた喧嘩だ。多少の怪我はともかく死人までは計算に入れていなかった。われに返ってまわりを見まわしてあまりの惨状に二度驚いた。
 そんなこととも知らず、井戸掘りの現場であきはピンコロとび跳ねていた。熱い良質の温泉を掘り当てたのである。
 「出た、出た、出た、出た!」
 あきは一目散にもと来た道を駈けだした。
 広間では、息を吹き返した番頭が仁王立ちでしゅんとなった鳶と漁師に小言を並べ立てていた。
 「出た、出た、出たよお!」
 そこへあきがとびこんできた。その場の惨状を見て喜色満面のあきの顔は一瞬ポカンとした表情に変わった。当然である。
 「おかみさん、見てくださいよ、コレ。わたしは警察へ訴えてきます」
 「ちょい待ち番頭さん」。行きかける番頭をあきは引きとめた。「ウチで起きたことを警察へなんか届けてどうすんだい。ウチで起きたことはウチでおさめるから余計なことしないでちょうだい」
 あきの意外な言葉に、番頭はじめ鳶も漁師もみんな呆気にとられた。
 「仲直りする前に、みなさんすみませんが風呂入って汚れ落としてきてください」
 いわれるまま鳶も漁師も肩を落として悄然と出て行った。喧嘩前の威勢がウソのようである。
 風呂から上がってくると浴衣は全部新しいのと替えてあった。広間へ戻るとお膳がズラッと新しく出し直してある。
 「エライ婆あだよ。コリャ、ゼニいくらふんだくられるかわかったもんじゃないぞ」
 戦々兢々としながら「本日の損害は鳶が七で漁師が三の割合でもつ」ことで手打ちをすませた。ところがあきはそれに取り合わない。
 「きょうのこの席は金なんか取らない」
 取らないどころか自分から三味線を取ってさのさだ都々逸だとドンチャン騒ぎの音頭を取り始めた。
 「気に入った。来年は六十人から仲間をふやして連れてくるからな」
 藤井はそういって膝を叩いた。
 温泉は湧く、客には惚れられる。あきはがんもどきのような顔を紅潮させピンコロ跳ねて踊った。

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