【小説】湯けむり 小林伸男

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第十四話

 ふさこが来た当座に比べると湯河原は逆に落ち着いた湯治場の雰囲気を取り戻していた。不夜城のような賑いがうそのように思われた。その間に恵旅館は鉄筋の建物を二棟新築し、その名を恵ホテルと変えたことをみてもわかるように全体として客はふえたはずだ。が、熱海のような歓楽郷としての賑いはかげをひそめていた。
 ふさこはこの湯河原に根を生やしたように居座っていつしか古参に数えられるようになっていた。
 ある座敷にふさこは若い芸者を三人ほど連れて出た。客は千葉の肉屋の一行十二人ほど。
 「あの社長は口が悪いからね。気をつけてね」
 その旅館のおかみに念を押されていた。
 「オイ!」と早速来た。ふさこはすかさず返事を返した。「なんだよ!」
 社長は呆気にとられた顔をした。
 「おそろしく元気のいいのが来たな。オイ、どうだい。若いのとコレできるか」
 ふさこは社長の手を見た。人差指と中指の間から赤い親指の頭がのぞいている。
 「できないよ」
 「おめえもハッキリ言うなあ」
 「ハッキリ言わなきゃなにごともハッキリしないじゃないのよ」
 「おんめえ俺と気性そっくりだな。ズケズケずいぶんハッキリ物をいうじゃねえか」
 「そりゃそうだろ。わたしゃ頭(かしら)の座敷出てるからね。クニャクニャなんかしてたらついていけないよ」
 ふさこはいつもこんなふうな江戸っ子を女にしたような口のきき方をした。それで客と衝突するかというとそうではない。
 売れっ子の若い芸者を連れて大きな座敷に出たときのことである。二次会に料亭へ流れたその席で、売れっ子の若い芸者が話のはずみから「さいきんの客は遊び方を知らない」とつい口走った。
 相手の客が顔を真っ赤にして怒鳴った。
 「ナニオッ、金で買われた芸者の分際で生意気な口をきくな!」
 ふさこはすっとんで行って客に頭を下げた。
 「スイマセン。ごめんなさい」
 「姐さんが悪いんじゃないよ。あいつが悪いんだよ」
 機先を制されて客は怒りの継穂を失った。
 「若いこのそそうは一緒に入ったあたしのそそうですから、あいスイマセンごめんなさい」
 なんどもふさこに謝られては客は気分を取り直して飲み始めた。
 ふさこは分浜乃家の浜太郎とは「カーといえばツー」という仲である。閉鎖的なこの世界では本音で話す場というものがない。座敷の帰りふさこはよく酔った浜太郎を抱えて帰った。浜太郎は座敷のうっぷんばらしにふさこにからむ。売れっこの若い芸者に限らず「さいきんの客は遊び方を知らない」というのはどの芸者も感じていること。同じように客を遊ばせられる芸者も少なくなってきていた。親しい相手だとついそうしたことへの不満が口をついて出る。ここでもふさこは聞き役にまわった。
 「ごめんね。あんたに言いたいこと言って。ごめんね」
 家へ帰るとすぐ浜太郎から電話がかかってきた。

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